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2006年 04月 02日
もう4月ですね。知らないうちに、2006年も4分の1を過ぎてしまったわけです・・・。3月は、体調を崩してしまったり、ちょっと忙しかったりしたのですが、実はその合間合間を縫って、歌舞伎座に3回も通っておりました~(一幕見で)。というのも、大好きでたまらない『二人椀久』(ににんわんきゅう)という踊りがかかっていたからです!
歌舞伎に関しては、私なぞ「通」の人からしたら初心者もいいとこなんですけど、でも学生時代から好きでちょこちょこ見に行っております。特に歌舞伎座によく行くのですが、前もってチケットとって「さぁ行くぞ!」っていうよりも、見たい演目だけを「一幕見席」で見る、っていうのが私は多いです。歌舞伎って、通しで見ると、ハッキリ言って拘束時間が長すぎる(平気で5時間以上かかる)ので、スケジュールとの兼ね合いが難しいんですよねぇ。でもその点、「一幕見席」だったら文字通り「一幕」だけを見ればいいので、時間の拘束も少ないし、事前にチケットとらなくてもいいし、値段も700円くらいですむ。「今日は時間があいてるなー」っていう時に歌舞伎座にサッと寄って、気軽に歌舞伎が楽しめるので、オススメです(ご存知の方も多いと思いますが)。1時間くらい前から列ができ始めますが、立ち見でも時間が短いためそれほど苦ではないので、時間ギリギリに行っても大丈夫。ただし、天井に近づきそうなくらい上の階なので、双眼鏡は必須ですよー!(←オペラグラス、と言ってくれ) というわけで。 せっかくなので、歌舞伎座の歴史をちょっと調べてみました。 ●明治22年(1889)、『東京日日新聞』のジャーナリストだった福地桜痴(源一郎)と、既にいくつかの劇場に資金を提供していた金融業者千葉勝五郎の共同経営で設立。このときの建物は、西洋風。 ●明治44年(1901)、建物を檜造りの日本式宮殿風に改築。 ●大正3年(1914)、関西から進出してきた松竹が劇場を経営するようになります。大正期の東京歌舞伎界は、帝国劇場と、市村座と、歌舞伎座、の3つがメジャーな劇場になりました。特に、市村座の人気は凄かったそうです(→「伝説の二長町市村座」)。 ●大正10年(1921)、漏電火事のため、建物喪失。 ●大正12年(1923)、再建中に、関東大震災のため、建物一部喪失。 ●大正14年(1925)、建物再建。設計は、岡田信一郎(→妻は、赤坂の美人芸者・萬龍。彼女についてはこちらでも書きましたのでご覧ください)。 ●昭和20年(1945)、東京大空襲で、建物一部喪失。 ●昭和26年(1951)、建物再建。現在に至ります。 で、『二人椀久』(ににんわんきゅう)なんですが。 もう、この踊りと曲が、好きで好きでたまらないのです・・・! 最初に見たのは、今から12年前(1993年)の正月にNHK-BSでやっていた「坂東玉三郎の世界」というスペシャル番組。その番組の中で、坂東玉三郎と片岡孝夫(現・15代目片岡仁左衛門)による『二人椀久』のフル映像がありまして。そのとき大学1年生だった私、今風(?)に言えば、「うわ~~~~ヤバイ!!!」と思いましたよ! 何ていうんでしょうか、「もの凄いもの」に遭遇してしまった時って、嬉しくてたまらないのと同時に、何か、恐怖のようなものを感じませんか? それは、『日出処の天子』を読んでしまった時ともちょっと似ていたのですが・・・。それ以来、番組を録画したテープ(←3倍モード)を宝物のごとく大事にしてきましたが、最近では「HDに落とす」というオツな方法を採用できることになったため、テープのすり減りを気にすることもなくなり、バカみたいに何度も何度もしつこく見ています。私もヘタクソながら日舞を習っておりまして、いつか踊れるようになったらいいなぁ・・・と、おこがましい夢のまた夢のようなことを考えている次第です。 いわゆる「孝玉(たかたま)コンビ」による、『二人椀久』 ↓ 『二人椀久』のモデルは、大阪御堂筋の豪商・椀屋久右衛門(わんやきゅうえもん)と、大阪新町の遊郭の花魁(高級遊女)・松山太夫(まつやまだゆう)。江戸時代初期(1670年代)、セレブ町人の椀久は、高級遊女の松山太夫入れ込み、放蕩の限りをつくします。何でも、豆まきの豆の代わりに一分金をまいたりしちゃったそうで、そりゃ一族の者も黙っているわけにいかないでしょう、というわけで結局、椀久は座敷牢に押し込まれてしまうのでした。その結果、「キ印」と化してしまった椀久は、ついに町をふらふらと徘徊するアブナイ人に・・・。そんな哀れな姿が評判(?)となり、歌や文楽にとりあげられ、「椀久もの」というジャンルができたんだそうです。 『二人椀久』が演じられるようになったのは、享保19年(1734)。市村竹之丞と瀬川菊之丞によって演じられました。享保と言えば、享保の改革の時代です。「暴れん坊将軍」ことマツケン・・・じゃなくて、8代将軍・徳川吉宗が、質素倹約を標榜して幕府財政を立て直した時代ですね。ちなみに、町奉行「大岡越前」が活躍した時代でもあります。 それから40年後の安永3年(1774)、『其面影二人椀久』(そのおもかげににんわんきゅう)が上演されました。作曲(長唄)錦屋金蔵。作詞不明。振付不明。椀久は9代目・市川羽左衛門。松山太夫は瀬川富三郎。これが、現在の『二人椀久』のルーツだそうです。 時代はずっと下って、昭和26年、『二人椀久』が復活します。振付は初代・尾上菊之丞(←尾上流2代目家元)、椀久は尾上菊之丞、松山太夫は吾妻徳穂、という配役で踊ったものが大評判になったのでした (ちなみに吾妻徳穂は、フランス系アメリカ人とのハーフだったと言われる美形役者15代目・市村羽左衛門の娘。後に4代目・中村富十郎と結婚、後に離婚)。その後、吾妻徳穂は、息子の5代目・中村富十郎と『二人椀久』を踊り、それ以降は、富十郎の椀久&4代目・中村雀右衛門の松山太夫の名コンビによって、繰り返し上演されてきました。 『二人椀久』の名コンビ、冨十郎の椀久&雀右衛門の松山太夫。 ↓ ちなみに、冨十郎は、人間国宝。しかも、69歳で長男をつくり、74歳で次男を作ったっていう、いろんな意味で凄い人です・・・(注:バイアグラは使っていない、とのこと)。ちなみに奥さんは、33歳年下です(新橋演舞場で『鬼平犯科帳』を共演したのがきっかけで結婚した、正恵夫人)。 冨十郎&雀右衛門コンビの『二人椀久』DVDもあります。必見です! ↓ 『二人椀久』CDもオススメ!!!!!!! ↓ 『二人椀久』のキモノも注目したいですよね、せっかくですから。 椀屋久兵衛ファッション。(冨十郎) 帯:白地に黒の横縞 かつら:総髪の糸垂れ 頭巾:投げ頭巾(袋状に四角く縫い、前に厚紙を入れて立てて、あまった布を後ろに垂らす) もしくは、焙烙(ほうろく)頭巾。 羽織り:十徳(じっとく) 杖:ふくべ(瓢箪)のついた杖 上の写真の椀久は、「投げ頭巾」をかぶっていますね。頭巾は、一般に僧・医師・老人がかぶるもので、鉢坊主や世捨て人となった境遇を示すときにも使われます。あと、上の写真には映っていませんが、椀久は最初、シースルー素材の黒くて短い羽織りを着て登場します。これが「十徳」で、やはり僧・医師・儒者・茶道の師匠なんかが着るものでした。 松山太夫ファッション。(雀右衛門) かつら:元禄勝山、もしくは、元禄兵庫。 上の写真の松山太夫は、鹿の子柄の着物ですね。半襟は赤裏を返して。襦袢は赤。帯は前結びです。江戸時代の初期は、帯は前結びが普通だったそう。後ろ結びが流行し出したのは江戸時代も中頃ですが、それは若い娘のファッションで、結婚して年増といわれる年齢(注:20代で既に年増です!)になると、やっぱり前結びにしたんだとか。 ・・・・と、歌舞伎座と『二人椀久』について書いてきましたが・・・、そもそも、3月に3回も見てきた舞台はどうだったんだー? という意見もあるかと思います(っていうか、自分でそう思いました)。いや、そりゃあステキでしたよ! 椀久は、おなじみ中村冨十郎。松山太夫は、尾上菊之助(尾上菊五郎と藤純子の息子。寺島しのぶの弟。そういえば昔、江角マキコと付き合っていましたよね)。振付は、昭和26年上演の時の尾上菊之丞のもの。でも、私は「通」じゃないので、「あの配役は○○の仁じゃない」(使い方あってるでしょうか?)とか、「○○の演技は○○の時と比べて今ひとつ弱い」とか、そういう舞台評みたいなことは実際、よくわからないんです。たくさんの舞台を見て、比較できるような体験を大量に蓄積しておかないと、何とも言いようがないですから。 でも、こんなに曲が素晴らしくて、振付が素晴らしくて、一流の踊り手に、一流の演奏家、舞台の背景も照明も衣装も素晴らしくて、そして大向こうによる掛け声(「天王寺屋!」「音羽屋!」とか「待ってました!」とか「ご両人!」とか)のタイミングもベスト!! そんな空間にいたら、それだけでもう天国にいる心地がするものではないでしょうか? 私なんか、その空間にいた時の気持ちをひと言で表すとしたら、「that's paradise...!!」っていう感じでしたよー。もう何も考えなくない、ひたすらこの快楽と幻想に浸っていたい・・・みたいな。ヤク中の人の気持ちってこんな感じなのかも。田代まさしのこと笑えないです(「ミニにタコ」は笑えるけど)。 でも、冨十郎の踊りは、凄い。それだけは、わかりました。言葉では言えないんだけど、凄い。椀久っていう、普通にいたら「バカー!」としか言いようがない愚かな男を演じて、これほどまでに悲哀を漂わせることができるなんて。もちろん、曲も振付も良い、っていうのもあるとは思うけれど(←結構忘れられがち・・・)、とにかく体から漲っている「気」「エネルギー」が半端じゃないんです。さすが74歳で子作りに成功する人は違うっ!と思いました。片岡孝夫のどこまでも美しいハンサム椀久もステキでしたが、こういう「老いていて、かつ美しくもない小太り椀久」っていうのも、リアルに悲哀を感じさせて良かったですし(菊之助が美しいぶん、なおさら・・・)。でも、歌舞伎の良さ・面白さ・有り難さって、誤解を恐れずに言えば、こういう「グロテスク」なところにあるように思うんです。だって、ひたすら綺麗な方がいいんだったら、美男美女が出演する普通の演劇とか映画でいいでしょうし。それに、杉サマの方が綺麗といえば綺麗ですし・・・。 と言いつつも・・・、やっぱり美しい歌舞伎役者も必要よね! (ワガママな大衆ですみません。) ということで、玉三郎の松山太夫です! ↓ 初代・歌川国貞(自称、2代目・豊国)(ちゃんと数えると、3代目・豊国)による『二人椀久』錦絵(国立劇場所蔵)。 初代・国貞は、初代・豊国の門人。文政10年から「香蝶楼」を号するようになりました。上の絵にも、「香蝶楼」の号アリ。天保15年(1844)、豊国を襲名して2代目と自称します。が、正式に数えると3代目らしくて、本によっては3代目・豊国、と記されていることもあります。 最後に、東京新聞の記事「菊之助が松山太夫で初挑戦 歌舞伎座」を、以下に貼りつけておきます(新聞記事って、しばらくすると削除されちゃうので)。 尾上菊之助が、東京・歌舞伎座の三月公演「二人椀久(ににんわんきゅう)」(27日まで)で中村富十郎の椀屋久兵衛相手に、遊女松山太夫を初役で演じている。富十郎と中村雀右衛門が半世紀をかけて踊り込んできた長唄の名曲だけに、菊之助は「胸を借りるつもりで、心に残る作品に仕上げたい」と意気込んでいる。 >> 長唄杵家会サイト内 「長唄聞書48「二人椀久」」 さすが杵屋会のサイト。長唄「二人椀久」のうたい方について詳しいです。 「長唄でいちばん難しい物が椀久、椀久でいちばん難しい所が筒井筒」だそうで! >> 西川矢右衛門さんサイト内 「ちょっと歴史 「二人椀久」」 椀久ものを題材にした浄瑠璃・浮世草子のことなど、詳しいです。 >> 音の会サイト内 「二人椀久」 >> 1993年にNHK-BS「坂東玉三郎の世界」で放映された、 坂東玉三郎と片岡孝夫の『二人椀久』についてのデータ。(自分のためのメモ) 昭和60年(1985) 新橋演舞場にて。 振付: 花柳錦之輔 唄: 芳村伊四郎、芳村伊十蔵、松島藤次郎、杵屋佐之隆、冨士田新蔵 三味線: 杵屋勝国、岡安喜久三郎、芳村伊十一郎、杵屋五三寿郎、杵屋裕光 笛: 望月長次郎 小鼓: 田中伝兵衛、田中欽也、田中伝七 大鼓: 田中長十郎 蔭囃子: 田中伝三 (美男子も大変なのよねー!)
by houtoumusume
| 2006-04-02 02:10
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