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2005年 07月 01日
解剖蝋人形、というと、フィレンツェのラ・スペコラ(La Specola) が有名ですが、結構いろんなところにあるんですね。ボローニャにもあるそうですし。でも、ウィーンにもあるなんて、私は全く知りませんでした。しかも世界最大の規模なんだとか・・・。ホントかな?
下の写真は、ウィーンにある医学史博物館・ヨゼフィーヌム(Josephinum)で展示されている解剖蝋人形です。撮影年は1949年と、ちょっぴり古い写真ですが。 撮影:Herbert List この写真、たまたまネットで調べものをしていて見つけたのですが、お気に入りブログ『Hugo Strikes Back! 』でも掲載されていました(←ちなみに、ここのブログは本当にセンスが良いです!!!!!) ちょっと調べてみたら、面白いことがわかりました。どうやら、このウィーンの解剖蝋人形館ヨゼフィーヌムも、フィレンツェの解剖蝋人形館ラ・スペコラも、マリア・テレジアの二人の息子たちによって作られたようなのです。 時は1780年。マリア・テレジアの長男で、神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ二世は、弟でトスカーナ大公のレオポルドのもとを訪れました。そのレオポルドこそが、フィレンツェにラ・スペコラを設立したひと(1775年設立)。正確には、レオポルドが医学・自然史博物館を設立し、そのなかにあるラ・スペコラは、当時の有名な科学者Felice Fontanaが企画したそうですが(ラ・スペコラという名前がつけられたのは1789年)。 そんなわけで、皇帝ヨーゼフ二世はフィレンツェのラ・スペコラを見学し、「これを同じものを、ウィーンの医学・薬学研究所のなかにも作ろう!」と決意します。 ウィーンの解剖蝋人形プロジェクトには、ラ・スペコラの人材をそのまま利用したそうです。例えば、当時の著名な科学者にして、ラ・スペコラの立案者Felice Fontana (1720 - 1805)だとか、ラ・スペコラの芸術的な蝋人形のほとんどを作成した、Clemente Susini (1754 - 1814)など。 彼らの協力を得て、1784年から1788年にかけてフィレンツェで作られた1192にもおよぶ蝋モデルは、莫大な経費をかけてウィーンに運ばれました。その経費はおよそ30000グルデン(約9000万円)にまでのぼったとか。けれど、この皇帝ヨーゼフ二世の時代(1765~1790)は神聖ローマ帝国が最も栄えた時期だったそうなので、こんな出費はヘでもなかったのでしょうねー。 それにしても、「解剖蝋人形に魅了された二人の兄弟」っていうのもなかなか面白いなぁ、と思いました。ついでに言えば、後に首をチョン切られることになるマリー・アントワネットの兄たちですしねぇ。系図はこちら。 Pompeo Batoni 描く、トスカーナ大公レオポルド(左)と皇帝ヨーゼフ二世(右) これもホントにちなみに、なんですが、、なぜハプズブルグ家のレオポルドがトスカーナ大公なんだ?と、ちょっと不思議に思いました。が、トスカーナは、1530年以来ずっとハプズブルグ家の支配下にあったのだそうです。それについて詳しいペエジはこちら。 ■マリアテレジア(Maria Theresia 1717-1780, queen of Hungary from 1740 to 1780) ■ヨーゼフ二世(Joseph II 1741-1790, emperor from 1765 to 1790) ■レオポルド(後の皇帝レオポルド二世) (Pietro Leopoldo 1747-1792, grand duke of Tuscany from 1765, emperor as Leopold II from 1790 to 1792) >>マリア・テレジアの子どもたちについて 「マリア・テレジアの子供たち」 ウィーン史についてとても詳しくて、西洋史好きにはたまらないサイトです。 >>ハプスブルグ家について 「ハプスブルグ王朝は欧州の背骨」 ハプスブルグ家についてコンパクトに整理されていて、わかりやすいペエジ。 >>ラ・スペコラについて 「La Specola museum...」 ラ・スペコラの成立について詳しいペエジ。英語ですが割とやさしめでした。 あー。最初の写真のHerbert Listについて書きたかったんですが、時間がない・・・。ので、また明日にでも書こうと思います~~。
by houtoumusume
| 2005-07-01 22:13
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